家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。あるがままを見、そこから気づきを得るのである。
未来に望みをかけること、それすなわち人間的思考の運動による両極端を掴もうとする想いである。人々に異論を立てる事も人間的思考の運動(正⇔誤)が立ち上がってると言える。そのように人間的思考の運動が立ち上がってる状態では真理をみる事は出来ない。故に智慧ある修行者は、それらの想いを捨てさって遂には安穏を観たのである。
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