かれは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、すでに得た(見解)〔先入見〕を捨て去って執着することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は種々異なった見解を掴んで分かれているが、かれは実に党派に盲従(分別なく人の言うがままに従うこと)せず、いかなる見解もをそのまま信ずることはない。このように常に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけて遍歴せよ。
人というものは、常に分別し、その分別の結果によって行動するものである。そこには常に偏見=分別による偏った見方がある。それ故に真理を観る事はできないのである。それは、分別によって捨て去ったものを見ようとしないからである。故に修行者は、偏ることなく、常に自らの人間的思考の運動によく気をつけ、遂には真理を観たのである。
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