実に悪意=「人間的思考の運動(正⇔悪)」をもって(他人を)誹(そし)る人々もいる。また他人から聞いた事を真実だと思って(人間的思考の運動(正⇔悪)を立ち上げて)(他人を)誹る人々もいる。誹ることばが起っても、聖者は自らの人間的思考の運動(正⇔悪)を制しそれに近づかない。だから聖者は何ごとについても心の荒(すさ)むことがない。
他人を評価しようとする心それは、人間的思考の運動である。まさに善悪の分別であり、お釈迦様の中道の修行を行う者は常に自らの思考の運動によく気をつけそれらへの想いを制しないといけない。分別をしている限り真理を観ることはできないからである。修行者の心に分別の想いが立ち上がる時、その目は全体を観ることができない。なぜなら分別によって半分を排除しているからである。故に修行者は、自らの人間的思考の運動によく気をつけ、中道を維持して世の中を遍歴せよ。
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