賢者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて両極端に対する欲望を制し、感官と対象との接触による自らの反応の仕方である癖を知りつくして、貪ることなく努める。自責の念にかられるような両極端に対する貪りを制して、見聞することがらに汚されない。このように中道を歩むのである。
人間というのは、日々分別の連続である。故に常に自らを見張っておく必要があるのだ。少しでも放っておくと人というのは貪り求める。そうしては、それらを追いかける忙しい日々を過ごすことになるのである。そのような状態では到底心理を観ることなどできない。故に修行者は、怠ることなく自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、遂には真理を観たのである。
コメントを残す