853 快(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、また高慢にならず、柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。
人間的思考の運動を止めて快(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、また運動が止まっているので、高慢にならず、柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。聖者は、この二元の運動(信⇔嫌)を制止したものだと知れ。この人間的思考の運動(快⇔不快)を止めることが出来ない人間は、快が得られれば耽溺し、高慢になる。常に何かを追い求めてその形相は獣の如く、ことばが荒々しく二元の運動によって何かを信じれば没頭するがそれは時間とともに変化するのでそれを嫌うこととなる。そうして煩悩の荒波を作っていくのである。聖者はそれを知って、この人間的思考の運動こそが、苦の根源だと言うことを知って、限りなくその運動が制止したときに安穏を観たのである。
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