801 かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居(すまい)は、かれには何も存在しない。
かれはここで、両極端の反応の仕方や、種々の生存の状態に対して常住を求めて、この世でのあり方や、この世でかなわないならば、来世ではかなえたいなどと願うことはない。諸々の事物を両極端に分け快を追求する反応の仕方は、かれには存在しない。人々は、眼、耳、鼻、舌、肌、意識から入ってきた情報をすぐさま、両極端すなわち、快、不快に分け快を追い求め、不快を排除すると言う反応の仕方が世の常である。そして、快の常住を求めて追求し、今生でかなわなければ、来世でと言う想いで輪廻転生をくり返しているのである。この世は無常であるから、ある時は、その想いがかない、また、ある時は、その状態が変化するので、苦を生じるのである。世の人々はこのように、禍福を創って行くのである。その想いによってまた生まれては、老いに苦しみ、死に、また生まれる。また、ある人は思うであろう。「こんなに苦しい世の中にはもう未練はない。」「あの世へ行こう。」と言う想いによって、「この世」⇔「かの世」と言う生死の運動をするものもいる。そこもまた、行くべきところではないのである。それを知って、聖者は、この二元の運動を静止して、仏の智慧を感じる。そこにこそ、行くべきところがあるのである。
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