スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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スッタニパータ 清浄についての八つの詩句788、789の解説

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句788、789の解説

788 「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を最上の境地に達し得る)智慧であると理解する。

 

 

789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。

 

 

 

「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると偏った見方による自らの快を追求して、清らかなことを観ずる人は、自らの快にもとづいた考え方を最上の境地に達し得る智慧であると思い込む。もしも、人が人間的思考である二元の運動(快⇔不快)による快を追求して清らかになるのであれば、あるいは、また人が人から聞いた知識だけによって苦しみを捨て去ることができるのであれば、それは、人間的思考の運動を止めていない煩悩にとらわれている人が、人間的思考の運動を静止する以外の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人は、偏った思考であり、人間的思考の人であると呼ぶ。人は、自らの二元に分ける思考により理想と思った状態が、清らかだと勘違いをしているのである。それらの人々は人間的思考の運動をしているので、一時的に、自らの理想の境地を得られたとしても、それは運動しているので必ず逆の現象が目の前に現われるのである。そうして、禍福の運動をし、また生まれて来る。すなわちかれには苦しみがつきまとう。それを知って修行者は、自らの人間的思考の運動に注視し、それを止め遂には安穏を観たのである。

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