838 マーガンディアがいった、「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、〈内心の安らぎ〉ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」
839 師は答えた、「マーガンディアよ。『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』、とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である)」
師は答えた、「マーガンディアよ。『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』、とも説かない。この学問が有る⇔無いと言う運動の思考が人間的思考なのである。人間的思考の運動はこのような思考だと知れ。すなわち学問がある⇔無い、知識がある⇔無い、戒律や道徳を守る⇔守らないこれが、煩悩の荒波(運動)である。この二元の喜びを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、中道を保って、それらを求めて迷いの生存に戻らないもの、それが聖者と呼ばれる。
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