835 (師(ブッダ)は語った)、「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪(けんお)と貪欲(とんよく)(という三人の魔女)を見ても、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触(ふ)れたくないのだ。」
かつてブッダがサーヴァッティーにいたときに、マーガンディヤというバラモンが、自分の娘を盛装させて同道し、ブッダの妻として受納するように乞うた。娘が縁者になれば、いつでも教えを請えると願って。また、ブッダと言えども世の中の男が欲するものは悦ぶであろうと考えて・・・。そこで師(ブッダ)は語った、「われは昔さとりを開こうとした時に、3人の女性を見た。それぞれの心中に、ある者は、愛執に満ち、ある者は、嫌悪(けんお)に満ち、ある者は、貪欲(とんよく)に満ちていた女性を見たので、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。煩悩に満ちたこの女がそもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触(ふ)れたくないのだ。」これが第二の観法である。
人は楽をしたいという心が立ち上がるのですぐに何かに依存しようという心が働く。この依存する心も人間的思考である。人は仏や神に対して依存する心で祈願をする者がいる。それは、例えば歌の練習をしないのに歌が上手くなりたいと乞うのと同様に、自らの心を制していない者が清浄を得られるように乞うこと、それも依存である。すなわち依存では清浄は得られないのである。ブッダもマーガンディヤの心の内に娘を通して依存する心がある事を観る。かれの心内は、世の中の男性は、全てが快美な娘を欲すると言う偏見の元にブッダが悦ぶだろうと考えたのである。そこでブッダは対抗思念、もう一つの見方を伝える。その者の心の内には愛執、嫌悪、貪欲といった汚泥がひそむ者もある。また、身体の中は、糞尿に満ちている。このように観ずる者に悦びが生ずるであろうか?修行者とは、このように快に偏ることはなく、また不快に偏ることもない。この2つの思考の波を制して遍歴する者それが修行者なのである。
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