スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

suttanipata

info@suttanipata.com

03月

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇912の解説

912 聖者はこの世で諸々の束縛(そくばく)を捨て去って、論争が起ったときにも、党派にくみすることがない。かれは不安な人々のうちにあっても安らけく、泰然として、執することがない。ー他の人々はそれに執着しているのだが。-

 

 

聖者はこの世で諸々の分別による束縛(そくばく)を捨て去って、論争が起ったときにも、分別を制して党派にくみすることがない。かれは両極端の運動によって不安な人々のうちにあっても両極端を制して安らけく、中道を保って泰然として、執することがない。ー他の人々は両極端の運動によって、それに執着しているのだが。-

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇911の解説

911 バラモンは正しく知って、妄想分別(もうそうふんべつ)におもむかない。見解に流されず、知識にもなずまない。かれは凡俗の立てる諸々の見解を知って、心にとどめない。ー他の人々はそれに執着しているのだが。-

 

 

バラモンは平等性智(分別せず性質を知る)により正しく知って、妄想分別(もうそうふんべつ)におもむかない。両極端の見解に流されず、知識にも流されない。かれは凡俗の立てる諸々の見解を知って、心にとどめない。ー他の人々はそれに執着しているのだが、聖者は、自ら真理を視る覚りによってありのまま知るのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇910の解説

910 (「われは知る」「われは見る」ということに)執着して論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらに(のみ)清浄(となる道)を認める論者は、そのように(一方的に)見たのである。

 

 

 

「われは知る」「われは見る」という、みずからの見方にに執着して論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらにのみ清浄となる道を認める論者は、そのように人間的思考の運動(優⇔劣)を立ち上げて一方的に見たのである。

お釈迦さま最後のことばの意味

お釈迦さまがお亡くなりになる時に弟子のアーナンダが近くで泣いていました。

どうか、私たちを置いて行かないで下さい。

もっと指導して下さいと。

そこで、お釈迦さまは、言いました。

アーナンダよ私を拠り所にしてはならない。

法を拠り所にせよ。

と、それを見て私は、確かにお釈迦さまと言えど寿命が尽きたらお亡くなりになるので、拠り所にしてはならないと言われるのは、わかるが、法とは?

実は、法と言うのは、この世界の事だったのです。

まさに我々の目の前に繰り広げられているこの世界。

この世界に存在するひとつひとつが、法を表しています。

例えば、私たちがお風呂に入ったとします。ちょうどいい湯加減で入った時は、気持ちが良いです。しかし、時間と共に体温は、上がって行き、耐えられなくなるでしょう。

気持ちが良い状態は、どれくらいでしたでしょうか?ほんの少しです。

それから後は、苦痛ですよね?

これを見ても、このたった一つの動作がこの世を表している事がわかるでしょう?

これが法です。

つまり、この世で目の前に展開される現象は、全て法を表しているのです。

そこからの気づき、これが智慧です。

お釈迦さまは、その法、見て知ることによる気づきを拠り所とせよとおっしゃったのですね。

まさに目の当たりに展開される法を拠り所とし、それが教えである。

その法に気づくには、しっかりと、目の前に起きる事をよく観察をする。

同時に、自らの心、身体も観察をする。そこに法すなわち教えがあるのだと言う事をおっしゃったのです。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇909の解説

909 見る人は名称と形態とを見る。また見てはそれらを(常住または安楽であると)認め知るであろう。見たい人は、多かれ少なかれ、それらを(そのように)見たらよいだろう。真理に達した人々は、それ(を見ること)によって清浄になるとは説かないからである。

 

 

見る人は目の前の現象である名称と形態とを見て分別をする。また見てはそれら両極端の状態をを常住または安楽であると思い込むであろう。人間的思考の運動による反応をする人は、多かれ少なかれ、それらをそのように見たらよいだろう。真理に達した人々は、それを見ること分別することによって清浄になるとは説かないからである。18

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇908の解説

908 「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるのだろう。かれらは、正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。

 

 

 

「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という他の見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるのだろう。かれらは、自ら知ると言う正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇907の解説

907 (真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。

 

 

真の修行者は、他人に導かれるということがない。自らの中に真理を見いだすからである。また諸々のことがらについて人間的思考の運動を制しており、断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。全てのことわりを自ら知るかれは、他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇906の解説

906 かれらは自分の道を称讃するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれ清浄となれるからである。

 

 

 

かれらは自分の道を称讃するように、自己の教えを尊重している。しからば真に自らの真理を視たのであれば、一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれの法によって清浄となれるからである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇905の解説

905 もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅(かた)く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。

 

 

 

もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅(かた)く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。それは人間的思考の運動(優⇔劣)であり自らの説に固執して他者を排除しようとする運動である。賢者は自らを知り他と比較する必要も無い。それが理法である。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇904の解説

904 かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異なった執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。

 

 

 

かれらは自らの見方に固執し自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異なった人間的思考の運動(優⇔劣)による執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。そのこだわりが見方を狭くし苦しみを生むのである。