スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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04月

スッタニパータ  悪意についての八つの詩句782の解説

782 人から尋ねられたのではないのに、他人に向かって、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、自分で自分のことを言いふらすのであるから、かれは「下劣な人」である、と心理に達した人は語る。

 

 

 

人から尋ねられたのではないのに、他人に向かって、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、自分で自分のことを言いふらすのであるから、かれは「人間的思考の運動(快⇔不快)による快(快適な言葉)を欲する人」である、と心理に達した人は語る。かれは、他人からの褒め言葉を欲し、いわゆる聞くことによる快を欲した想いによる行動、すなわち、身(行動)口(言動)意(想い)の三業が現れたのである。

スッタニパータ  悪意についての八つの詩句781の解説

781 欲にひかれ、好みにとらわれている人は、どうして自分の偏見を超えることができるだろうか。かれは、みずから完全であると思いなしている。かれは知るにまかせて語るであろう。

 

 

 

人間的思考の運動(好き⇔嫌い)により欲にひかれ、運動による好みにとらわれている人は、どうして自分の分ける見方である偏見を超えることができるだろうか。かれは、みずからその人間的思考の運動による分け方が完全であると思いなしている。かれは知るにまかせて語るであろうが、かれなりの人間的思考の運動による分け方であり、迷いの激流の渦中に在するのである。

スッタニパータ  悪意についての八つの詩句780の解説

780 実に悪意をもって(他人を)誹(そし)る人々もいる。また他人から聞いた事を真実だと思って(他人を)誹る人々もいる。誹ることばが起っても、聖者はそれに近づかない。だから聖者は何ごとについても心の荒(すさ)むことがない。

 

 

実に人間的思考の運動(好き⇔嫌い)をもって他人を誹(そし)る人々もいる。また他人から聞いた事を真実だと思って人間的思考の運動(好き⇔嫌い)の反応の仕方が立ち上がり他人を誹る人々もいる。誹ることばが起っても、聖者は両極端に近づかない。だから聖者は何ごとについても人間的思考の運動を制して心の荒(すさ)むことがない。

スッタニパータ  洞窟についての八つの詩句779の解説

779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執着に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、つとめ励んで行い、この世をもかの世をも望まない。

 

 

人間的思考の運動が創り出す想いを知りつくして、両極端の激流を渡れ。聖者は、人間的思考の運動による想いを制して、所有したいという執着に汚されることなく、両極端による煩悩の矢を抜き去って、人間的思考の運動を制する事につとめ励んで行い、この世をもかの世をも望まない。中道を歩み彼の岸へと到達するのである。

スッタニパータ  洞窟についての八つの詩句778の解説

778 賢者は、両極端に対する欲望を制し、(感官と対象との)接触を知りつくして、貪ることなく、自責の念にかられるように悪い行いをしないで、見聞することがらに汚されない。

 

 

賢者は、人間的思考の運動(快⇔不快)による感官と対象との接触を知りつくして、両極端に対する欲望を制し、それらを貪ることなく、自責の念にかられるように貪り求めて悪い行いなどをしてでも手に入れようとなど考えず、それらの想いを制し、何事においても、見聞することがらに汚されない。そのように自らの反応の仕方を制し、自らに打ち克つものである。

 

スッタニパータ  洞窟についての八つの詩句777の解説

777 (何ものかを)わがものであると執着して動揺している人々を見よ。(かれらのありさまは)ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである。これを見て、「わがもの」という思いを離れて行うべきである。ー諸々の生存に対して執着することなしに。

 

 

 

何ものかをわがものであると執着して動揺している人々を見よ。かれらのありさまはひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものであり、この無常の世(変化ある世界)で執着をすること、それは、ひからびたところに存在する水の如く失われていくのである。それを追い求める魚は、水を得ることすらできないのである。これを見て、「わがもの」という思いを離れて行うべきである。ー諸々の生存に対して執着することなしに。無常を知って、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を止め、この変化ある世界へ戻ってきてはならない。

スッタニパータ  洞窟についての八つの詩句776の解説

776 この世の人々が、諸々の生存に対する妄執にとらわれ、ふるえているのを、わたしは見る。下劣な人々は、種々の生存に対する妄執を離れないで、死に直面して泣く。

 

 

 

この世の人々が、諸々の生存に対する人間的思考の運動(好き⇔嫌い)による妄執にとらわれ、ふるえているのを、わたしは見る。人間的思考の運動(快⇔不快)にとらわれている人々は、種々の生存に対する妄執を離れないで、この無常の世で妄執によって生れ、生れたものは、また死に直面して泣くのである。

スッタニパータ  洞窟についての八つの詩句775の解説

775 だから人はここにおいて学ぶべきである。世間で「不正」であると知られているどんなことであろうとも、そのために不正を行ってはならない。「ひとの命は短いものだ」と賢者たちは説いているのだ。

 

 

 

だから人はここにおいて学ぶべきである。世間で「不正」であると知られているどんなことであろうとも、人間的思考の運動(快⇔不快)による欲望のために不正を行ってはならない。「ひとの命は短いものだ」と賢者たちは説いているのだ。それは運動をするので必ず逆の現象が目の前に現れるのである。

スッタニパータ  洞窟についての八つの詩句774の解説

774 かれらは欲望を貪り、熱中し、溺(おぼ)れて、吝嗇(りんしょく)(物惜しみ、ケチ)で不正になずんでいるが、(死時には)苦しみにおそわれて悲観する、ー「ここで死んでから、われらはどうなるのだろうか」と。

 

 

 

かれらは人間的思考の運動(快⇔不快)のままに、欲望を貪り、熱中し、溺(おぼ)れて、それを得るために、吝嗇(りんしょく)(物惜しみ、ケチ)で不正になずんでいるが、死時には、全てを失い、苦しみにおそわれて悲観する、ー「ここで死んでから、われらはどうなるのだろうか」と。それは、運動をするので快を得たとしても必ず不快が目の前に現れるのである。

スッタニパータ  洞窟についての八つの詩句773の解説

773 欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい。他人が解脱させてくれるのではないからである。かれらは未来をも過去をも顧慮(こりょ)しながら、これらの(目の前の)欲望または過去の欲望を貪(むさぼ)る。

 

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)による欲求にもとづいて快を貪り求め生存の快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい。他人が人間的思考の運動に気をつけて解脱させてくれるのではないからである。かれらは未来をも過去をも人間的思考の運動(快⇔不快)による反応の仕方で顧慮(こりょ)しながら、これらの目の前の欲望または過去の欲望を貪(むさぼ)る。