スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

suttanipata

info@suttanipata.com

11月

スッタニパータ  争闘876の解説

875 「われらがあなたにおたずねしたことを、あなたはわれわれに説き明かしてくださいました。われらは別のことをあなたにおたずねしましょう。どうか、それを説いてください。ーこの世における或る賢者たちは、『この状態だけが、霊(たましい)の最上の清浄の境地である』とわれらに語ります。しかしまた、それよりも以上に、『他の(清浄の境地)がある』と説く人々もいるのでしょうか?」

 

 

876 「この世において或る賢者たちは、『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうちに(最上の清浄の境地がある)と巧(たく)みに語っている。

 

 

この世において或る自称賢者たちは、彼らの人間的思考の運動による偏った見方で『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は、人間的思考の運動(生⇔消滅)によって断滅を説き、精神も肉体も残りなく消滅することのうちに最上の清浄の境地がある)と巧(たく)みに語っているが、自らの見方に快を覚えているのである。そして、違う見方を不快に思い排除しようとし論争におよぶ。まさに人間的思考の運動(快⇔不快)である。それを知って修行者は、自らの人間的思考の運動による反応の仕方によく気をつけ世の中を遍歴せよ。

 

スッタニパータ  争闘874の解説

873 「どのように修行した者によって、形態が消滅するのですか?楽と苦はいかにして消滅するのですか?どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。わたくしはそれを知りたいものです。ーわたくしはこのように考えました。」

 

 

874 「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。ーこのように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである。」

 

 

 

ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。すなわちこの想いが人間的思考の運動なのである。想う⇔想わないと言う思考が人間的思考であり、この想いによって形態が形成される。またこの想いは誤って想うすなわち判断を間違えて想った場合も形成される。想いを消滅したいと言う強い想いによっても形成されるのである。ーこのように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである。それを知って修行者は、様々な人間的思考の運動を制し遂にはニルヴァーナへと至るのである。

スッタニパータ  争闘872の解説

871 「世の中で感官による接触は何にもとづいて起るのですか?また所有欲は何から起るのですか?何ものが存在しないときに、〈わがもの〉という我執が存在しないのですか?何ものが消滅したときに、感官による接触がはたらかないのですか?」

 

 

872 「名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は欲求を縁として起る。欲求がないときには、〈わがもの〉という我執も存在しない。形態が消滅したときには〈感官による接触〉ははたらかない。」

 

 

 

人は、この世に生れてくるときに名称と形態とを持ち感官による接触が起る。諸々の所有欲は、人間的思考の運動(快⇔不快)による欲求を縁として起る。人間的思考の運動を制止し欲求がないときには、わがものという我執も存在しない。人間的思考の運動(快⇔不快)を制し形態が消滅したときには感官による接触ははたらかない。

スッタニパータ  争闘870の解説

869 「快と不快とは何にもとづいて起るのですか?また何がないときにこれらのものが現われないのですか?また生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているものを、われに語ってください。」

 

 

870 「快と不快とは、感官による接触にもとづいて起る。感官による接触が存在しないときには、これらのものも起らない。生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているもの(感官による接触)を、われは汝に告げる。」

 

 

快と不快とは、人間の肉体および意識による感官による接触にもとづいて起る。肉体から離れて感官による接触が存在しないときには、これらのものも起らない。生起と消滅ということの意義すなわち人間的思考の運動によって生起⇔消滅の運動が起こること、それの起るもととなっているもの感官による接触を、われは汝に告げる。この感覚的感受による人間的思考の運動(快⇔不快)を制したとき、そのもととなる肉体にも入らなくなるのである。そうしてかの聖者は、ニルヴァーナへと達する。

 

スッタニパータ  争闘868の解説

868 怒りと虚言と疑惑、ーこれらのことがらも、(快と不快との)二つがあるときに現われる。疑惑ある人は知識の道に学べ。〈道の人〉は、知って、諸々のことがらを説いたのである。」

 

 

怒りと虚言と疑惑、ーこれらのことがらも、快と不快との二つの運動があるときに現われる。不快だと怒り快を得るために虚言を言うのである。疑惑ある人は知識の道に学べ。道の人は、知って、諸々のことがらを説いたのである。すなわち人間的思考の運動であるこの2つの運動である快と不快に気をつけることである。

 

スッタニパータ  争闘867の解説

866 「さて世の中で欲望は何にもとづて起るのですか?また(形而上学的(けいじじょうがくてき)な)断定は何から起るのですか?怒りと虚言と疑惑と及び(道の人)(沙門(しゃもん))の説いた諸々のことがらは、何から起るのですか?」

 

 

867 「世の中で〈快〉〈不快〉と称するものに依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には生起と消滅とのあることを見て、世の中の人は(外的な事物にとらわれた)断定を下す。

 

 

 

「世の中で人間的思考の運動による〈快〉〈不快〉と称するものの運動によって、欲望が起る。諸々の物質的存在には生起⇔消滅とのあることを見て、世の中の人は外的な事物すなわち二元の運動にとらわれた断定を下す。この2つに偏った運動を止めることが修行なのである。

スッタニパータ  争闘865の解説

864 世間において、愛し好むものは何にもとづいて起るのですか。また世間にはびこる貪(むさぼ)りは何にもとづいて起るのですか。また人が来世に関していだく希望とその成就(じょうじゅ)とは、何にもとづいて起るのですか?」

 

 

865 「世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、欲望にもとづいて起る。また、人が来世に関していだく希望とその成就とは、それにもとづいて起る。」

 

 

 

世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、人間的思考の運動(快⇔不快)による欲望にもとづいて起る。また、人が来世に関していだく希望とその成就とは、それにもとづいて起る。」人間の好みとは?すなわち人間的思考の運動によって好き⇔嫌いの2つに分け好きなものを貪り求める。たとえそれが得られたとしても、それは運動を繰り返すので、必ず正反対のもの「嫌い」が目の前に現れるのである。運動をするものであるから、求めたものが得られても、それは逆のものに変化していくのである。変化するので人はまた求めて来世に希望を抱くそしてまた生れてくるのである。なんどこの変化ある世界に生れてきても、変化は止むことはなく、その想いも止むことはないのである。それ故に修行者は、自らの人間的思考の運動を制し、運動を止めて遂には生れてくる想いも制せよ。

 

 

スッタニパータ  争闘863の解説

862 「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは、どこから現われ出てきたのですか?これらはどこから起ったのですか?どうか、それを教えてください。」

 

 

863 「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは慳(ものおし)みに伴(ともな)い、争論が生じたときに、悪口が起る。」

 

 

 

「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは愛し好むもの、すなわち人間的思考の運動による「好き⇔嫌い」の運動にもとづいて起る。争闘と争論とは、人間的思考の運動である「好き⇔嫌い」の運動により慳(ものおし)みに伴(ともな)い、争論が生じたときに、「嫌い」に偏ったときに悪口が起る。」人間の汚泥とも呼べる姿は全て人間的思考の運動すなわち二元の運動による思考にもとづいて起るのであるから、修行者よ、限りなく、この運動を止めることに日々注視せよ。

スッタニパータ  死ぬよりも前に861の解説

861 かれは世間において〈わがもの〉という所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれは〔欲望に促(うなが)されて〕、諸々の事物に赴(おもむく)くこともない。かれは実に〈平安なる者〉と呼ばれる。」

 

 

 

世の人々は、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)によって分別し、自らの周りを自らが「好き」と感じたもので埋め尽くすが、かれは、理によって目の前に現れるものは縁あって現れ、それには必ず因がある、それがなくなれば消滅する。この世の中は無常である事を知るかれは世間において〈わがもの〉という所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれは人間的思考の運動による欲望に促(うなが)されて、諸々の事物を欲し赴(おもむく)くこともない。かれは実に平安なる者と呼ばれる。目の前に現れるものは、必ず因があるそして縁あって現れたときに、人間的思考の運動により、「好き⇔嫌い」この運動がおこると、好きなものを手に入れた(果)としても、必ず嫌いなものもついて回る(報)のである。人間的思考の運動は、振り子のような運動をするので、一方のものを求め手に入れたとしても必ず正反対の方に振れそれが目の前に現れる。それによって人間的思考の運動を止めることが出来なければ、かれには苦しみが付いて回るのである。まるで、牛車のうしろに車がついて回るの如く。それを知って修行者は、自らの人間的思考の運動に注視し、常に運動を止め遂には安らぎへと到達するのである。

スッタニパータ  死ぬよりも前に860の解説

860 聖者は貪りを離れ、慳(ものおし)みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものであるとも』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別(ふんべつ)を受けることのないものであって、妄想(もうそう)分別におもむかない。

 

 

 

聖者は、人間的思考の運動を制し、貪りを離れ、掴んだものが離れる際も慳(ものおし)みすることなく、他人との比較による思考の運動をも制して『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものであるとも』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは、人間的思考の運動を制して、分別(ふんべつ)を受けることのないものであって、あれこれ妄想(もうそう)し分別におもむかない。かれは、全ての人間的思考の運動を制して遂には彼の岸へと到達したのである。