スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇890,891の解説

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇890,891の解説

890 もしも、他人が自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その(呼ぶ人)自身は(相手と)ともに愚劣な者となる。また、もしも自分でヴェーダの達人・賢者と称し得るのであれば、諸々の〈道の人〉のうち愚者は一人も存在しないことになる。

 

 
891 「この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背(そむ)き、〈不完全な人〉である」と、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれらは自己の偏見に耽溺(たんでき)して汚(けが)れに染まっているからである。
 

 

890、891の解説

もしも、他人が自分を愚劣だと呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その呼ぶ人自身は相手とともに人間的思考の運動をしているので修行未完成な者となる。また、もしも自らの智慧でヴェーダの達人・賢者と称し得るのであれば、諸々の修行者のうち愚者は一人も存在しないことになる。このわが説以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背(そむ)き、不完全な人であると、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれらは自己の偏った見方に耽溺して煩悩の汚(けが)れに染まっているからである。

 

 

 

 

人間的思考の分ける心は、修行の場においても発生する。それは、自らと同じ偏った見方の人々が好きであり、違う見方の人は嫌いであると言う思考である。また、自らが考えた思想を自分で見ては、素晴らしいと心が運動している。この様々な修行においても巧みに人間的思考は立ち上がるのである。そして、知らず知らずのうちに迷いの流転に巻き込まれていく。教えに対しても、「これだ」と思う心が人間的思考であり、他の教えをは、排除しようとする心も人間的思考なのだ。そして、ことば巧みに他者を批判する。そう言う癖がついているのである。聖者とは、この両極端の運動を制する者であり、喜ぶものではない。そして、他を活かすものであり排除するものでもない。そう知って、自らの心を静かに見つめよ、その心が中道に帰したときに道は開けるのである。

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